Had some sunshine, some rains.
更新日記。ときどき単なる日記。…つまり日記?(聞くな)
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
そろそろ世間ではお盆休みな方もおられるようですね。
私は今日は、クライアント2つのうち片方がお盆休み突入で
もう片方が完全に沈黙してたので、
出勤したもののあまりお仕事が動かない1日でした。
チョー暇だった…まぁ、こんな日、1年に2~3回しかないけどねw
というわけで、破の3回目と4回目とハチに行きたいでつ。
3回目と4回目はそれこそ
公開が終わるまでそろそろ間がなさそうなので
お盆に入ったらすぐにでも行きたいとおもてるのですが、
それと同時に、ハチにも行きたいんだよな…。
エヴァ破の予告で流れて
「くそぅ、俺に柴犬を使うとは実に卑怯な!!!」と思いながらも
画面に大アップになるワンコにヤられまくって悶えてたんですけど、
この監督さんって、私が大好きな「ショコラ」の人なんですよーー!
ダダ泣きさせられるの判っててもやっぱ映画館で見たい!
幸い、破と同じ劇場のシアター違いで上映されるので、
3回目はひとまずハチと併せて1人で行こうかなと思ってます。
だって、ああいう泣かせ映画って、付き合ってくれる人少ないしw
でもきっと、ハチ見てから破見る方が無難だろうな…。
サイトの方は、お盆休み中に更新、が目標。
ワタミツ先行になっちゃうと思うですが、
桜の続きもアップしたいので、そっちも調整中ですー。
この後は破絡みの雑考。
後悔しないって人だけ続きへどぞ。
途中からちょっとぶっちゃけてるので、嫌な予感がしたら先を読む必要ないッスよん。
※バイブルとか書いておきながら時間軸間違えてた箇所を修正しました。
なんでミスるかな自分…この前最初から読みなおしたとこなのに…orz
私は今日は、クライアント2つのうち片方がお盆休み突入で
もう片方が完全に沈黙してたので、
出勤したもののあまりお仕事が動かない1日でした。
チョー暇だった…まぁ、こんな日、1年に2~3回しかないけどねw
というわけで、破の3回目と4回目とハチに行きたいでつ。
3回目と4回目はそれこそ
公開が終わるまでそろそろ間がなさそうなので
お盆に入ったらすぐにでも行きたいとおもてるのですが、
それと同時に、ハチにも行きたいんだよな…。
エヴァ破の予告で流れて
「くそぅ、俺に柴犬を使うとは実に卑怯な!!!」と思いながらも
画面に大アップになるワンコにヤられまくって悶えてたんですけど、
この監督さんって、私が大好きな「ショコラ」の人なんですよーー!
ダダ泣きさせられるの判っててもやっぱ映画館で見たい!
幸い、破と同じ劇場のシアター違いで上映されるので、
3回目はひとまずハチと併せて1人で行こうかなと思ってます。
だって、ああいう泣かせ映画って、付き合ってくれる人少ないしw
でもきっと、ハチ見てから破見る方が無難だろうな…。
サイトの方は、お盆休み中に更新、が目標。
ワタミツ先行になっちゃうと思うですが、
桜の続きもアップしたいので、そっちも調整中ですー。
この後は破絡みの雑考。
後悔しないって人だけ続きへどぞ。
途中からちょっとぶっちゃけてるので、嫌な予感がしたら先を読む必要ないッスよん。
※バイブルとか書いておきながら時間軸間違えてた箇所を修正しました。
なんでミスるかな自分…この前最初から読みなおしたとこなのに…orz
この前ツレと電話で話してたんですが、
私たぶん、TV~EOEの物語の流れで、
レイとカヲルのことにグッサリやられてなければ、
最初のサイトも立ち上げなかった気がします。
少し前の破の感想でも書いたことですけど、
TV~EOEでのメッセージにはすごく納得&共感したし、
それぞれ何度も繰り返して見てしまうほどマジ大好きなんですが、
それはやはり人側の結論としての部分であって、
使徒側の結論は最初から用意されてなかったと思うんです。
使徒であるレイやカヲルが人にあてたメッセージというアンサーはあったけど、
人としてのシンジの答えは使徒にとってのアンサーそのものとは
言えなかったんじゃないだろうか、という。
事象を現実に置き換えても、
結局、そこに存在し得て初めてアクションもリアクションも可能で、
存在が消えてしまった後では、
経過時間でどんどん新しい情報に淘汰されていくんですよね。
そういう淘汰そのものがある意味必然で間違いじゃないのは判った上で、
「じゃぁ、あの子たちはどこにいくの?」
という、グッサリ突き刺さった棘が、私に話を書かせていたと思います。
その棘の痛さが、私が話を書くときの、
「私はあの子たちにどうなってほしかったの?」
から始まり、
“もし”
人という種族に淘汰されることなく使徒が共存できるのなら、
「あの子たちのためのアンサーがあるならどういうもの?」
っていう、自分なりのアンサーを探す方法論になったのは
もうどうにもこうにも逆らいようのない流れとしか言いようがありません(笑)
私には幾つかバイブル的なマンガがあって、
その1つは獣木野生(旧:伸たまき)さんの「パーム」シリーズなんですけど、
そのシリーズの中に、
1から15までの四角い駒を滑らせて順番に並べいくパズルゲームを指して
「ものごとを動かすのは、常に空白の部分なんだ」
という意味の会話があるんですけど、
当時それに号泣した記憶があります。
持たない者こそが動かす力を持つ、というところや
本当に欲しいものがある時には無欲にならなければいけない、とか、
そういう意味で、
ありとあらゆる ない というシチュエーションやスタンスや巡り合わせといったもの、
それはパームシリーズ全編を通した物語の骨組みの1つなんですが、
(主人公の本名がマイケル・V・ネガットで、そのVはVoid(虚無)という意味。
別のシーンで、Voidは主人公の母親の専売特許だったからね、と、
死んだ母親の友人にVoidの由来を教えてもらう。)
まさに私にとってのエヴァ(TV~EOE)は、そんな感じでした。
なにもない から 心から離れない
なにもない から 何だったのか確かめたい
きっと、私にとってTV~EOEというものが
全てにおいて完全無欠で与えられたものに満足しきってしまっていたら、
私の中では早々に心の殿堂のなかにそっとしまっておくことになって、
きっと自分ですら何度もそれに手を触れて手垢をつけたいとは
思わなかったでしょうし、まして、
「カヲルやレイの幸せって何~~~!!!?」
とか、ちゃぶ台の端を噛みしめつつ呻りつつ必死に小説を書く、
なんてことは起き得なかったと確信してます。
今回の破までで、新劇の物語を書こうという気持ちはまだ起きてないです。
それはたぶん、今の時点では
もしかしたら死ぬほど欲しかった使徒組へのアンサー※が提示されるかも?
という期待感の方に持っていかれてしまってるからなんでしょうね。
(※ここでいうアンサーは、私が欲しかった形と同じかどうかじゃなく、
使徒組ちゃんたちにアンサーが用意されているかどうかが重要)
(さて、この辺からぶっちゃけてますヨ)
そういう意味では、やっぱり今の段階では
「とにかく新劇を最後まで完食したい!」っていう気持ちが大きくて
余分なことはあまり考えられない、考えたくないって感じかな。
そのせいか、私は、今の段階でTV~EOEと比較するようなことはしたくないです。
対比や変化点を論じたり検証するための比較は別として、
どちらかを否定するためだけに比較するのは筋が違うと思うのよね。
っていうか、最初から土俵が違う分、尺が違って当たり前だから、
TV~EOEまでの総時間を合計した「エヴァ」と、
「エヴァ」を踏まえてはいるもののまだ4時間くらいしか経過してない
新劇場版「ヱヴァ」を比べてどうこう、というのは意味がないと感じてます。
まして、新劇が最初から「エヴァ」と違う「ヱヴァ」を目指している以上、
もし本当に比べるのなら、TV版には当時の最終話として26話があったんだから、
全体の構成からいえば、
デスリバ+EOEと、新劇場版(完結後)で比べないとおかしい。
なぜなら、映画としての完成度はデスリバのデス編は完全にTV版に乗っかってるから
実においしい形でTV版要素をお客に「反芻」させているのは新劇以上であって、
新劇と同様にデス編も「劇場だけで体験させているのではない」という
大きな事実があるからです。
新劇と比較するなら、そこを無視したらイカンでしょう。
それと、細かくいうなら、TV版と一口に言ったとしても、
TV放映版とTV放映版をブラッシュアップしたビデオ版では
物語の精密さにかなりの差があるし、
じゃぁ真のTV版っていうのは放映版とビデオ版のどっちなんだ!?
ってところからはっきりさせないと、
余りにも一方的な比較にしかならないもんね。
ちなみに、私にとっての真のTV版はビデオ版の方になると思う。
それは、京都はエヴァを放映してなかったので、
前半~中盤まで、ビデオ版を見てからTV放映版を見たせいですが。
21話からはTV放映版を先に見てます。
むしろビデオ版24話のマサユキ耽美カヲルは全力でいらんかったw
LD買った時の本田さんの中ジャケットの素晴らしさに舞い上がった直後、
肝心の追加シーンで悲しい方向で限界まで顎落ちたもんなー…。
(エヴァでは数少ない、あまり思い出したくない記憶w)
や、色んな掲示板とかでもあまりにも比べたがる人が多いのはともかく、
比べたがる人は割と新劇を現時点で否定してる人が多い気がするので、
なんでそこまでして比較して「今」マルバツする必要があるの?って
ちょっと不思議な感じがしたんですよね。
だって、結末が出た物語と未完の物語を比較したって
片方には終着点がまだないから、比較する最大のキモが不在なわけで、
比べる意味がないと思うんだけどなぁ。
途中経過が気に入らないというのは理解できるけど、
途中の道が今気に食わなくても、
山の頂まで登って眺めてみたら違って見えるかもしれないのにね。
まぁ、「こんな山じゃ頂まで登る気がしないわ」って人も相当数いるだろうし、
期待してたのに心破れて離れていく人の複雑な気持ちは分かるのですが、
本当に新劇をみる覚悟があったの?ってくらいにクソミソな人がいると、
そんなに嫌ならもう心のブラックホールに投げ込んで忘れちゃえば?
所詮他人が作ったものだから、自分の思い通りになんてならないのに、
それってEOEでシンジがアスカの首絞めたのと同じジャネ?
だったらEOEでシンジが最後に見つけた答えって
あなたの中でどういうものだったの~?
的な素朴な疑問が湧いてしまってw
それに、私はEOEから新劇の間に、なんら溝を感じないんですよね。
今回私にとってレイとカヲルの立ち位置が最大の注目点だからかもしれないけど、
ちょっと乱暴な言い方になるけど、
EOEが「目標」としての答えを見せてくれたのだとすると、
新劇はEOEのくれた答えを「実現するためにどうするか」の世界なんじゃないかと。
だから、変化の触媒としてのマリの存在かもしれないし、
シンジやレイやアスカやミサトに表れたTV~EOEとの違いかもしれないし、
ユイの存在が希薄になったことは、ユイのコピーでは終わらない2番目レイ、という
「可能性」なんじゃないかなー、と、現時点では思っています。
反対に、
もし単純に新劇がEOEと同じ道しか歩まず同じ結論しか導かれないのであれば、
それこそ、何のためにシンジが物語をトレースする意味があるんだろう。
もう一度カヲルに裏切らたり階段下で蹲ったり瀕死のミサトにキスされて泣いたり、
巨大化したレイに恐怖したり勝手に神の子にされたりアスカの首を絞めたり、
アスカが偽りの復活したり量産機に食われたりシンジをひたすら拒絶したり
レイがリリスになったりカヲルがしっぽになったりレイがしっぽになったり…
デスリバとEOEは素晴らしい作品だと曇りなく私も認めているけど、
新劇じゃなく“それ”が見たいのであれば、まんまEOEを見ればいい。
無理して新劇を見る義務なんて誰にもない。
…と思うんですけど。
ちがうかなぁ????
まぁ、破までの受け止め方もQ以降の予想も
宇宙の片隅の私がただそう思ってるだけなので、
真に受ける必要はナッシンなんですけどもw
でも、こんなことを書きながらも、
もしかして、最後まで見たらまたちゃぶ台噛みながら話書くのかも?(笑)
しかも、マリの話書くとかも十分ありそうな(笑)
今度もまた使徒組ちゃん肩すかしされたら流石にブッコロs(ry)とかとか、
いやいや、しかしまぁ、それもこれも、
自分で完食してからでしかいう権利ないと思うし、
今はwktkかつbkbkと、
歯形のついたちゃぶ台の上で手を揉みながらQを待っておりまする(笑)
同時に、
そのちゃぶ台の上の手は、最後に逆手にひっくり返す用意も怠ってませんがw
個人的には、どうせ壊すなら中途半端に壊すよりも思い切ってやってほしい。
むしろ思いきり壊してくれた方が、1周して納得する人が増える気がするw
それはガチで思うー。
ちなみに、パームシリーズは完結までに30巻超えてますが、
超オススメです。
私たぶん、TV~EOEの物語の流れで、
レイとカヲルのことにグッサリやられてなければ、
最初のサイトも立ち上げなかった気がします。
少し前の破の感想でも書いたことですけど、
TV~EOEでのメッセージにはすごく納得&共感したし、
それぞれ何度も繰り返して見てしまうほどマジ大好きなんですが、
それはやはり人側の結論としての部分であって、
使徒側の結論は最初から用意されてなかったと思うんです。
使徒であるレイやカヲルが人にあてたメッセージというアンサーはあったけど、
人としてのシンジの答えは使徒にとってのアンサーそのものとは
言えなかったんじゃないだろうか、という。
事象を現実に置き換えても、
結局、そこに存在し得て初めてアクションもリアクションも可能で、
存在が消えてしまった後では、
経過時間でどんどん新しい情報に淘汰されていくんですよね。
そういう淘汰そのものがある意味必然で間違いじゃないのは判った上で、
「じゃぁ、あの子たちはどこにいくの?」
という、グッサリ突き刺さった棘が、私に話を書かせていたと思います。
その棘の痛さが、私が話を書くときの、
「私はあの子たちにどうなってほしかったの?」
から始まり、
“もし”
人という種族に淘汰されることなく使徒が共存できるのなら、
「あの子たちのためのアンサーがあるならどういうもの?」
っていう、自分なりのアンサーを探す方法論になったのは
もうどうにもこうにも逆らいようのない流れとしか言いようがありません(笑)
私には幾つかバイブル的なマンガがあって、
その1つは獣木野生(旧:伸たまき)さんの「パーム」シリーズなんですけど、
そのシリーズの中に、
1から15までの四角い駒を滑らせて順番に並べいくパズルゲームを指して
「ものごとを動かすのは、常に空白の部分なんだ」
という意味の会話があるんですけど、
当時それに号泣した記憶があります。
持たない者こそが動かす力を持つ、というところや
本当に欲しいものがある時には無欲にならなければいけない、とか、
そういう意味で、
ありとあらゆる ない というシチュエーションやスタンスや巡り合わせといったもの、
それはパームシリーズ全編を通した物語の骨組みの1つなんですが、
(主人公の本名がマイケル・V・ネガットで、そのVはVoid(虚無)という意味。
別のシーンで、Voidは主人公の母親の専売特許だったからね、と、
死んだ母親の友人にVoidの由来を教えてもらう。)
まさに私にとってのエヴァ(TV~EOE)は、そんな感じでした。
なにもない から 心から離れない
なにもない から 何だったのか確かめたい
きっと、私にとってTV~EOEというものが
全てにおいて完全無欠で与えられたものに満足しきってしまっていたら、
私の中では早々に心の殿堂のなかにそっとしまっておくことになって、
きっと自分ですら何度もそれに手を触れて手垢をつけたいとは
思わなかったでしょうし、まして、
「カヲルやレイの幸せって何~~~!!!?」
とか、ちゃぶ台の端を噛みしめつつ呻りつつ必死に小説を書く、
なんてことは起き得なかったと確信してます。
今回の破までで、新劇の物語を書こうという気持ちはまだ起きてないです。
それはたぶん、今の時点では
もしかしたら死ぬほど欲しかった使徒組へのアンサー※が提示されるかも?
という期待感の方に持っていかれてしまってるからなんでしょうね。
(※ここでいうアンサーは、私が欲しかった形と同じかどうかじゃなく、
使徒組ちゃんたちにアンサーが用意されているかどうかが重要)
(さて、この辺からぶっちゃけてますヨ)
そういう意味では、やっぱり今の段階では
「とにかく新劇を最後まで完食したい!」っていう気持ちが大きくて
余分なことはあまり考えられない、考えたくないって感じかな。
そのせいか、私は、今の段階でTV~EOEと比較するようなことはしたくないです。
対比や変化点を論じたり検証するための比較は別として、
どちらかを否定するためだけに比較するのは筋が違うと思うのよね。
っていうか、最初から土俵が違う分、尺が違って当たり前だから、
TV~EOEまでの総時間を合計した「エヴァ」と、
「エヴァ」を踏まえてはいるもののまだ4時間くらいしか経過してない
新劇場版「ヱヴァ」を比べてどうこう、というのは意味がないと感じてます。
まして、新劇が最初から「エヴァ」と違う「ヱヴァ」を目指している以上、
もし本当に比べるのなら、TV版には当時の最終話として26話があったんだから、
全体の構成からいえば、
デスリバ+EOEと、新劇場版(完結後)で比べないとおかしい。
なぜなら、映画としての完成度はデスリバのデス編は完全にTV版に乗っかってるから
実においしい形でTV版要素をお客に「反芻」させているのは新劇以上であって、
新劇と同様にデス編も「劇場だけで体験させているのではない」という
大きな事実があるからです。
新劇と比較するなら、そこを無視したらイカンでしょう。
それと、細かくいうなら、TV版と一口に言ったとしても、
TV放映版とTV放映版をブラッシュアップしたビデオ版では
物語の精密さにかなりの差があるし、
じゃぁ真のTV版っていうのは放映版とビデオ版のどっちなんだ!?
ってところからはっきりさせないと、
余りにも一方的な比較にしかならないもんね。
ちなみに、私にとっての真のTV版はビデオ版の方になると思う。
それは、京都はエヴァを放映してなかったので、
前半~中盤まで、ビデオ版を見てからTV放映版を見たせいですが。
21話からはTV放映版を先に見てます。
むしろビデオ版24話のマサユキ耽美カヲルは全力でいらんかったw
LD買った時の本田さんの中ジャケットの素晴らしさに舞い上がった直後、
肝心の追加シーンで悲しい方向で限界まで顎落ちたもんなー…。
(エヴァでは数少ない、あまり思い出したくない記憶w)
や、色んな掲示板とかでもあまりにも比べたがる人が多いのはともかく、
比べたがる人は割と新劇を現時点で否定してる人が多い気がするので、
なんでそこまでして比較して「今」マルバツする必要があるの?って
ちょっと不思議な感じがしたんですよね。
だって、結末が出た物語と未完の物語を比較したって
片方には終着点がまだないから、比較する最大のキモが不在なわけで、
比べる意味がないと思うんだけどなぁ。
途中経過が気に入らないというのは理解できるけど、
途中の道が今気に食わなくても、
山の頂まで登って眺めてみたら違って見えるかもしれないのにね。
まぁ、「こんな山じゃ頂まで登る気がしないわ」って人も相当数いるだろうし、
期待してたのに心破れて離れていく人の複雑な気持ちは分かるのですが、
本当に新劇をみる覚悟があったの?ってくらいにクソミソな人がいると、
そんなに嫌ならもう心のブラックホールに投げ込んで忘れちゃえば?
所詮他人が作ったものだから、自分の思い通りになんてならないのに、
それってEOEでシンジがアスカの首絞めたのと同じジャネ?
だったらEOEでシンジが最後に見つけた答えって
あなたの中でどういうものだったの~?
的な素朴な疑問が湧いてしまってw
それに、私はEOEから新劇の間に、なんら溝を感じないんですよね。
今回私にとってレイとカヲルの立ち位置が最大の注目点だからかもしれないけど、
ちょっと乱暴な言い方になるけど、
EOEが「目標」としての答えを見せてくれたのだとすると、
新劇はEOEのくれた答えを「実現するためにどうするか」の世界なんじゃないかと。
だから、変化の触媒としてのマリの存在かもしれないし、
シンジやレイやアスカやミサトに表れたTV~EOEとの違いかもしれないし、
ユイの存在が希薄になったことは、ユイのコピーでは終わらない2番目レイ、という
「可能性」なんじゃないかなー、と、現時点では思っています。
反対に、
もし単純に新劇がEOEと同じ道しか歩まず同じ結論しか導かれないのであれば、
それこそ、何のためにシンジが物語をトレースする意味があるんだろう。
もう一度カヲルに裏切らたり階段下で蹲ったり瀕死のミサトにキスされて泣いたり、
巨大化したレイに恐怖したり勝手に神の子にされたりアスカの首を絞めたり、
アスカが偽りの復活したり量産機に食われたりシンジをひたすら拒絶したり
レイがリリスになったりカヲルがしっぽになったりレイがしっぽになったり…
デスリバとEOEは素晴らしい作品だと曇りなく私も認めているけど、
新劇じゃなく“それ”が見たいのであれば、まんまEOEを見ればいい。
無理して新劇を見る義務なんて誰にもない。
…と思うんですけど。
ちがうかなぁ????
まぁ、破までの受け止め方もQ以降の予想も
宇宙の片隅の私がただそう思ってるだけなので、
真に受ける必要はナッシンなんですけどもw
でも、こんなことを書きながらも、
もしかして、最後まで見たらまたちゃぶ台噛みながら話書くのかも?(笑)
しかも、マリの話書くとかも十分ありそうな(笑)
今度もまた使徒組ちゃん肩すかしされたら流石にブッコロs(ry)とかとか、
いやいや、しかしまぁ、それもこれも、
自分で完食してからでしかいう権利ないと思うし、
今はwktkかつbkbkと、
歯形のついたちゃぶ台の上で手を揉みながらQを待っておりまする(笑)
同時に、
そのちゃぶ台の上の手は、最後に逆手にひっくり返す用意も怠ってませんがw
個人的には、どうせ壊すなら中途半端に壊すよりも思い切ってやってほしい。
むしろ思いきり壊してくれた方が、1周して納得する人が増える気がするw
それはガチで思うー。
ちなみに、パームシリーズは完結までに30巻超えてますが、
超オススメです。
PR
この記事にコメントする